2018年3月16日
江戸時代の地図を現代と見比べるとおもしろい

江戸時代の古地図を描いた本を買った。
時代がそう古くないため、資料も結構、残っているようだ。

江戸の中心部辺りは、所有者の名前も明確に記されている。

お城は守りを固めるため、内堀の周辺は、当然のことながら、信頼できる親藩や重職で固めている。
また、今でいう文京区は、旗本などの武士が中心となって住まいをなしていたようだ。

古地図と現在の地図を重ねた時に興味深かったのが、

・東京ドーム周辺と後楽園は、「水戸殿」の所有地
・東京大学の半分以上は、「加賀中納言殿」の所有地
・湯島の聖堂の敷地は、今よりはるかに広く、東京医科歯科大学と付属病院の一部も入っている。
・赤坂のサントリーホールのある辺りの駅は、溜池山王という駅があるが、江戸時代では、本当に溜池のように大きな水路が存在していた。

・東京タワーの敷地には複数の院と寺があった。
・増上寺の敷地の一部に東京プリンスやパークタワーが新たにできた。
・六本木ヒルズやグランドハイアットの敷地には、元々4つの寺があった。

一方、消費地でもある江戸では、町民が成す商業地は、武士にとっても必要なわけで、そのエリアが限定されているのが興味深い。
大きな商業地は、
・日本橋から銀座にかけての南北エリア

今日、銀座が日本一地価の高いエリアとなっているのは、偶然ではない。

築地は、ごく一部の東西に細長い川沿いのエリアだけが町民の住まいで、そのほとんどは、武士の屋敷であった。

住まいとは関係のない、時刻についても知識を得た。

・正午とあるお昼時は、「午」の刻
・八つ時(午後2時頃)に「おやつ」を食べる習慣ができた
・草木も眠る丑三つ時は、午前2時半頃

食事が1日3食になったのは、江戸時代の元禄時代頃かららしい。
江戸では、米の価格が下がったため、武士だけでなく、庶民も米を食べることが普通になってきていた。
(地方では、特別な日しかお米を食べることができないという話とは事情が異なるようだ)

地方と比べて、江戸文化が栄えたのは、それを支える経済力があったためと思われる。