とのやまクリニック紹介

とのやまクリニックは


ゆったりと待つことができるように、木の素材を多く使ったやわらかい雰囲気にしています。
明るい絵を用意しています。

・待ち時間にお茶やコーヒーを飲むことができます。

・待合室では、リラックスしやすいようにモーツァルトの音楽が流れています。

 

ドクター紹介

院長 殿山勇次
院長 殿山 勇次(とのやま ゆうじ)

広島県向島中央小学校卒
広島大学附属三原中学校卒
広島大学附属福山高等学校卒

平成3年 岡山大学医学部卒業
平成8年 十全第二病院
平成12年 西条市立周桑病院医長
平成19年 とのやまクリニック開設

これまでに講演、多数開催

資格

医学博士
精神保健指定医
精神科専門医
日医認定産業医

人生が転機をむかえる時
— 理不尽なことを乗り越えるために

 私は、生まれてこの方、国立の学校しか受験したことがありません。私立のみならず、県立、公立ですらありません。
 これは、決して自慢話ではありません。

 我が家は、極度の貧困とは言えないまでも、私立の学校に行くお金を捻出することができませんでした。そのため、どうせ行くことがないのだから、受験料ですらもったいないと、私立の学校を受験したことがありません。高校受験も県立高校よりも受験日の早い国立高校を目指し、県立高校を滑り止めとする、危うい橋を渡りました。

 これから書くできごとは、私の小学校時代のエピソードです。短気で怒りっぽく、でも、変に正義心だけあって、何だか分からないけど、すぐにケンカになる。そんな野猿の境遇と心情です。
 恥ばかりの人生なので、興味のとまった方にだけお読みいただければさいわいです。

 私は、愛媛県西条市とは海を挟んで存在する、広島県尾道市の片田舎で生まれ、生育しました。
 悪口めいたことを書くのは、口はばったいものですが、私の小学校時代は、お世辞にもよいとは言えぬ環境にありました。
 私の小学校は、小さな街の中では、最も人数の多い学校で、生徒数は千人を超えていました。どこにでもある学校ではありますが、私としては、嫌な染みをつけられた学校という認識を持っています。こういう学校にいること自体が嫌で、私の思い出す風景は、記憶の中では、哀しいセピア色を帯びています。

 小学校1年生の担任は、若い女性でした。彼女は、ヒステリー女と言えるほど厳しく、よく怒っていました。
 ある日の朝、私は、その担任からビンタされていました。わけのわからないままキョトンとしていたら、
「人が話をする時にあくびをするな!」と口頭で注意されて、自分の失態を初めて悟りました。
 彼女は、説教より手が飛んでくる方が早い性質の人だったようです。
ある意味、正しいことに違いないのですが、唐突な一片の暴行に生徒一同は口をつぐんでいました。
 私がもっと恐怖したのは、何かの事情でよく遅刻をする生徒がいて、
その子を担任が激しく罵倒することでした。
 担任は、責め言葉では足りず、「帰りなさい!」と甲高い声で怒鳴りながら、できの悪い生徒をこづきながら、執拗に責め立てていました。
やまない責め苦に生徒が激しく促されるまま帰ろうとすると、今度は、
「何、帰ろうとするの?!」と、さらに激昂するのでした。
 6歳の少年は、「これは、しつけているに相違ない」と自分に言い聞かせるように解釈していました。しかし、この折檻ともいえるやり方は、追求の手が激しすぎるではないかと、みなの目には映ったことでしょう。
 かようなことは、日常的に執り行われていたので、教室の空気は、ピンと張りつめ、無駄口のひとつもきく生徒はいませんでした。

 子どもは1日に千回笑うと言われています。
 その子どもが、学校で、わずかばかりの笑みしか浮かべない境遇をどうとらえたらよいのでしょうか。
「ぴかぴかの1年生」は、名ばかりのピカピカで、以後、大人の有無を言わせない強制力とこどもの身勝手な振る舞いに翻弄された小学校時代を送ることになったのです。

 小学校1年生の時、一度だけ県外に家族旅行にでかけたことがありました。父親の仕事の関係もあり、平日に学校を休む予定だったので、
「あの厳しい先生が絶対に許してくれるはずがない」と妙にたかをくくっていたのですが、親が手紙を書いて、それを渡すと、すんなり了承したのには拍子抜けしました。
 これは、子どものお願いと大人のお願いの違いをはっきりと認識した初めてのできごとでした。私の小学校1年生の時の記憶は、その許しで高知県に旅行に行ったこと、食べるのが遅くて居残りさせられたこと、そして、常に担任が怒っていたことくらいしか、起こった出来事を思い出すことができません。

 子どもは思ったよりも適応力も備えた生き物なので、厳しくて嫌だった先生も何とかやりすごしながら、2年生になりました。
 2年生の担任は、今になって思い起こせば、定年間近な女性教師でしたが、温厚な性格で、怒る姿をみたことがありませんでした。
 画工の時間で、版画作りをするときに、名前を刻むのですが、その先生は、私の名前は、「吉田(仮名)で、左右対称だから、版画を彫る時に楽なのよ」と屈託なく笑っていた様子が今でも印象に残っています。
その年、私は、もっとも自由に学校生活を楽しむことができました。
 何がよかったのかはわからないけど、通知表での成績も上がり、もっとも評価された学年だったのかもしれません。勉強やしつけでも苦労したとか、嫌な人間がいたとか、けなされたとかいうことも記憶にありませんでした。

 2年生になると九九の課題が出てくるのですが、すでに1年生の時、覚えてしまっていたため、学校の算数も楽にこなし、困ることもありませんでした。
 3学期には、あこがれのかわいらしい女の子と一緒に学級委員長に選出されました。その子とは、奇しくも同じ誕生日でした。そして、この年がもっともしあわせな小学校時代であることを後になって悟ることになります。
 次の3年生には、大きな試練と陥穽が待ち構えていることをその時点で知る由はありませんでした。

 穏やかな2年生がすぎ、3年生となりました。この年も、そうは変わらぬ1年だと初めは思っておりました。
 3年生の担任は、男性教師でした。初めての男の担任です。その先生には、当初、穏やかでやわらかい印象を持ちました。
 初めはわからぬまま時が過ぎていたのでしたが、しだいに空気に偏りができていることを察知しました。
 「固まった集団ができている」ことに気づいたのです。
 その集団は、本木(仮名)というシャキシャキした人物を中心としたもので、群れが大きくなるにつれ、大いに幅をきかせてきました。そして、集団が大きくなると、そこに属していないと教室の中では、違和感を感じるほどになっていきました。

 その時、平和を突き破る行動が始まったのです。
 本木が、数名を仲間はずれにすると宣告しました。
 そして、「そいつらと口をきいた奴は同罪になる」と。

 仲間はずれにされた子は、概ねとろくて、勉強ができなくて、融通のききにくい子でした。また、後で知ったことですが、なじみのない転校生もその槍玉にあげられていたのでした。
 私は、中立に居座りたくて、真ん中のポジションを維持しようとしたのですが、引力にさからっている不安定な場所には長く置いてはくれませんでした。

 しばらくして、私は、あるヘマをしでかしてしまいました。
 はぶんちょ(仲間はずれ)にされている子と一言口をきいたのを、本木の配下についている輩に垣間見られたのです。その行為は、ほどなく本木に通報され、以後、私は、はぶんちょの一人となってしまいました。
 はぶんちょになると、そうでない者と口をきくことができません。話しかけても無視をされるのでした。だから、はぶんちょは、はぶんちょとしか話をすることができませんでした。
 その世界では、差別だとか、不公平だとかという言い分は、一切聞き入れられません。

 巷間で口にされる噂では、本木は、ケンカが滅法強いという話で、本木の周辺でへつらっている数人の幹部が、その次に強くて、その他は、烏合の衆ということでした。
 ある日、本木が、ちょっと気に入らないことがあった幹部にプロレスの技をかけました。結構強いと目されていた、その幹部は、目を腫らして泣いていました。本木は、刮目してみよとばかりに、そういう場面を衆目にさらしていたので、「本木に逆らったら殺される」という暗黙の了解ができあがってしまいました。
 時が経っていくと、はぶんちょをひとりずつ呼んで、周囲を取り巻きが囲んで逃げられないようにした上で、本木は、はぶんちょに技をかけて泣かせていくというのを日課として始めました。私も、その洗礼をいくども受けましたが、意地でがまんしていると、「こいつは、泣きそうで泣かん」と吐き捨てるように告げられました。

 さて、ここで一つの疑問があります。
 学校の先生は、いったい、何をしていたのでしょうか?

 暴行は、学校の先生のいない所で行われていました。巧妙に時間も選んでいました。さらに、異変があった時のために歩哨を立たせていた気もします。

 それにしても、担任は、いじめの事実をまったく把握していなかったのでしょうか?
 これについての真偽は分かりませんが、何らかの異変を感じていたのは間違いと思います。はっきりとした尻尾をつかまない内は、首根っこをつかむことができなかったのかもしれません。
 しかし、いじめもさることながら、本木を中心とした集団は、すでに担任の言うことをきかなくなっていました。担任は、いわゆる、「完全になめられていた」のです。
 授業中に抜け出して、だべったり、秘密の場所に出かけたりと、生徒が好き放題するようになっていきました。ここに至って、授業を受けているのは、女子とごく少数の男子生徒だけになりました。
 はぶんちょにされていた私も教室を抜け出すことがしばしばありました。淡い記憶の中で思い返すには、脱獄犯でいる間は、同類のよしみとして、はぶんちょの刑が軽くなり、少しだけ仲間に入れてもらえました。
 こうして、担任による学級経営は、崩壊するに至りました。

 学級崩壊といじめは、大きく相関があると思われます。

 いじめは、平穏と思われる教室の中で密やかに繰り広げられていることがあります。いじめは、悲しいことではありますが、現実に、日常的に起こりうるものなのです。
 ところが、学級崩壊は、担任への求心力がある内は、免れることができます。
 だから、教師がある程度厳しくあることが悪いとは私は思いません。
ちびっこといえど、多人数を統制するには、尊敬なのか、カリスマなのか、恐れなのか、何らかの抑止力を必要とするのです。
 しかし、1年生と3年生の体験を踏まえて、あえて、私は、ここで言わせていただきます。

「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」
If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.

 レイモンド・チャンドラーが生み出したハードボイルド小説の中で、私立探偵、フィリップ・マーロウが言うセリフです。
 厳しいだけでは、教師としての資格はない。かように、教師に要求される資質は高い。

……さて、私個人の学級生活ですが、しだいにエスカレートしていくいじめに、私の態度も変わっていったようでした。
 私自身は、気づかなかったのですが、母親に、
「あんた、変よ」
と追求されたことがありました。
「一体、何があったの?」

子どもにも、うつはあります。
子どもは生来の明るさを有しているものの、言語能力が低いため、うまく状況を理解、説明、そして解決できません。また、心技体のいずれの力も乏しいものです。
 ゆえに、子どものうつは、大人のうつとは異なる様相を呈することが多いようです。
 子どものうつでは、しばしば反抗的な態度をとることがあります。

 そうした私の態度の違いを察知した親が、これを見逃しませんでした。しばらくは、「何もない」とごまかしていた私でしたが、幾日かの後に、ついに自白をしました。
「集団から、暴行をされている」と。

 その時、実は、私は後悔をしました。自分が卑怯であると悟ったのでした。一体、何が卑怯であるのか?これは、大人には理解しにくい心理です。
 それは、子どもの間のできごとは、子どもの間で解決しなければなりません。しかし、そのことを大人に「ちくった(告げ口)」からなのでした。
 私が言い得ぬ嫌悪感に苛(さいな)まれている間に、親がたたみかけました。
「それは、その子にやめさないと言わなければいけない」
私はすぐに恐怖しました。
「やめてくれ。殺される!」

 不思議なもので、集団の中でいじめられると、自分が悪くなくても、なにがしかの咎があるように思えてくるのです。
 そして、ボスは、教祖と同じく、自分にとっての命を支配する者のような錯覚をもたらします。集団で似たようなメッセージを投げかけられると、洗脳された状態になるのです。

 そんなことは意に介さず、親は、やはり言わなくてはいけないと主張しました。そして、ついに、参観日のあった帰り道、本木を中心とした生徒を集め、諭している姿を遠目にみました。

 その結果……
 私は、殺されませんでした。
 次の日から、いじめが止まりました。
 組織的ないじめは、子どもたちには解決できないようです。それは、親、担任、その他、情報を知る人が共同であたらなければならないもののようです。

 さて、いじめがあった小学校3年生をすぎ、4年生に上がりました。生徒は、基本的に持ち上がりです。ただ、担任はかわりました。
 4年生の担任は、ユニークな人でした。
 パントマイムをやってみせたり、芸をやってみせたりと、個性的で魅力的な面がありました。当時、まだ少なかった一人でも生きていくという自立したタイプの女性でした。
 先進的で独立心があり、自分の主張を持っています。しかし、「だから、いい」とは言えない側面がありました。
 この女性教師は、個性的である反面、自分の型に嵌めて(はめて)くる所がありました。
 授業をまるまる1時間使って、政治の話をしました。政治の話が悪いのではありません。彼女の授業は、政治の一般論ではなく、自分の主義主張を生徒にふきこむものでした。
 彼女は、授業の間にいくども自民党の悪口を唱えていました。そして、共産党への誘導を行っていました。当時、私は、政治のことに無知で、また関心もありませんでした。小学生の中学年ですから、そんなものでしょう。それでも、私たちの多くは、その授業を聞いて、自民党は悪い政党だと思ってしまいました。そして、共産党に入れた方がいいのではないかと考えました。
 これは、考え方も論理もそして、情報も持っていない小学生を洗脳する、彼女の実態でした。彼女は、教員としての一線を踏み越えて、生徒に自分のポリシーを吹きかけてきたのです。
 共産党員なのだから、搾取とか、不平等という言葉が頻繁につぶやかれました。

 そして、驚くことに、「不平等」という言葉は、私に対しても告げられました。
 当時は、塾が勃興し始めた頃で、塾に通っている生徒は、やや少数派でした。(それから3年経てば、塾に通う生徒の数が飛躍的に増え、一般的になるのですが、私が体験した段階では、少しだけ時期が早かったのです)
 塾に通うと予習をして、学校の授業の内容を習っているので、授業で手を挙げても発言させない仕打ちをされました。塾で習っている者とそうでない者を一緒に扱うのは平等ではないという理屈です。
 その担任は、最後まで、その主旨を貫きました。自民党の悪口も言いながら。

 彼女は、本当に平等であったのでしょうか?
 今になって思うと、彼女の主張する平等は、実は、本質的な平等ではなく、塾に通っていた生徒に対するいじめではなかったのかと推測するのです。そもそも、授業を使って、自分の支持する政党へ導くこと自体が、思想の自由に反しているのではないでしょうか?
 釈然としない気持ちを持ちながら、この4年生は終わりました。

 さて、学年もあがり、5年生になりました。5年生と6年生の担任は同じ男性教員でした。正直言うと、その男性教師は、怖い、暴力的という印象を持っていたので、できれば担任になってほしくはありませんでした。しかし、世の中は不思議なもので、そのなってほしくない人に当たるということは、よくあります。

 その先生のお仕置きは、むごたらしいという程ではありませんでしたが、かなりの威力がありました。よくないことをしたお咎めの1つは、頭への拳骨パンチです。これは、脳天から全身を貫いて、しゃがみ込むほどの痛みが響き渡りました。宿題を忘れた時には、頬をつねる体罰がありました。これもまた強烈でした。つねる仕草をみていると、先生の手が力一杯で震えているのが分かりました。その先生にムダ話をしているところを見つかって、拡声器で頭を殴打された時は、しばらく立ち上がることができませんでした。
 とはいえ、その暴力教師は、これまでの教師の比べると、性格的にはましな方だと後で気付きました。悪いことをしなければ、お咎めはありません。そういう意味では、比較的、公平な教師であったことが救いです。

 ただ、私が5年生と6年生の時に、ある懸案を持っていました。
 それは、突然に起こりました。
 昼休みに学校の校庭で遊んでいると、1つ下の学年が、集団で、か弱い小さい子をあからさまにいじめていたのを目の当たりにしたのでした。
 そういう事態を見ても、放置しておけばいいものを、意味があるかどうか分からない義侠心にかられて、そのいじめをやめるようにと集団に忠告したのでした。すると、その集団は、その子のいじめをやめて、攻撃の的を私に集中することになりました。私は、20人弱の勢力と反目することになりました。そのクラスで、本木が仕切っていたのと同じ構造が成り立っていたようです。
 その学年のそのクラスは、「早川(仮名)」という男子生徒が仕切っていました。早川は、当時、スーパーマーケットが成長していた時代にスーパーを経営する一家の子息でした。さほど大きくない店舗から始めて、より大きな店舗へと飛躍し、ついに隣にあったライバル店までも買収して、街で一番大きなシェアを占める店舗にのし上がっていました。その頃の早川の家は、羽振りもよかったであろうし、早川も鼻高々に学校に通っていたのでしょう。
 ずっと後に時代は移り変わって、早川の店の近くに、大型チェーン店が、出店しました。それは、早川の店では、到底太刀打ちできないほど大きな規模でした。それから流れが変わり、早川の店は他の街に触手を伸ばしましたが、それが最終的に墓穴を掘ることになり、倒産してしまいました。

 さて、話を戻します。
 学年は下でも集団で襲いかかられると、対処は難しいものです。幾度かの軋轢の中で、10人以上の生徒に取り囲まれた経験もあります。個別のケンカではひけをとらない自信はあったのですが、集団の圧力には、ひどくストレスがかかりました。
 私の受け持ちの担任は、その事態を一部知ってか、それについて少し言葉がけをしました。しかし、それは、私に対する援助ではなく、「争いはよくない」という、ありきたりな指導でした。

 大人というものは、何にも分かっていない!
 教師とは、一体なんぞや!

 私としても、無意味な争いをしたいわけではありません。ただ、いじめを止めることだけで反目しただけなのです。しかし、心情が絡まって、もはや自力では、抜け出せない状況になっていました。
 私は争いを望んでいたわけでもなく、ケンカが好きなわけでもありません。それにも関わらず、私は、ケンカを好む生徒として周囲からみられることが多くなりました。

 私がショックを受けたのは、10人以上に取り囲まれた時、私が助けた、その生徒もその中に加わっていたことです。
 人の本能と打算は恐ろしいものです。
 一時は私に助けられたのですが、私という敵ができたことによって仲間に組み入れられた、ひ弱な子は、自分がいじめられないため、私の共通の敵となり、共同体となることで組織からいじめを避ける道を選んだのです。
 この時、人は、一時的に助けられても、感謝や礼をすることはなく、反対に踏み台として、自分の利益を選択する道があるということを学習することになりました。
 その争いは、教師が理解することはなく、私が卒業するまで、解決するどころか、話し合いさえすることがありませんでした。

 私は、学校という制度に落胆すること、この上ありませんでした。
 このクソみたいな世界から何とか抜け出したい。小学校を卒業して、中学に入学しても、同じ生徒にプラスαの生徒が入ってくるだけで、本質は変えようがない。
 将来が、地獄絵図のように思われました。

 そうした中で私が希望を持ったのは、試験に合格することができたら、通うことができる、隣町の国立中学校でした。私立はお金が高くて無理だけれど、国立ならば、金銭的に通うことができたのです。私は、そのために、国立中学への受験を選びました。自分の住んでいる地域の学生との縁を絶ち、新しい世界へ入ることを考えたのです。

 大前研一さんのセミナーや本でよく語られる言葉があります。
 彼の言によると、人が変わるためには、3つの方法しかないそうです。
1 自分が使う時間を変えること
2 自分がつきあう人を変えること
3 自分の住んでいる場所を変えること

 私の目指すところでは、通う学校をかえ、付き合う人を変えることが一番有効でした。そのために、中学受験、高校受験、大学受験を経験した私にとって、中学受験が、最も切迫した課題となりました。小中学校は、義務教育のため、中学浪人という選択肢はなく、国立中学に受からなければ、地元の学校で、餓鬼・阿修羅の輪廻を繰り返していたと思うのです。
 中学になって、通う学校を変えて、接する人が変わってから、自分の気持ちや生き方も変化するということが分かりました。ゆったりとしているというか、余裕のある生徒がほとんどで、いじめのない世界を初めて経験しました。この中学校への選択がなければ、今の私はなかったと思います。

 今もそうですが、当時から、私は学校教育の危うさを感じ続けています。
 学習指導は、減点式で、関門をくぐり抜けた生徒に国策の案を作成させる、官僚養成用教育の負のレガシーが存在しているように思われます。
 聖徳太子が、「日の沈む天子にに」と隋の煬帝にあてた時代にできた、難関な「科挙」試験は清の時代になってようやく解消されましたが、我が国、日本においては、国家公務員上級試験という制度で、現在も存続しているように感じています。
 頭脳明晰なエリート官僚は、その特技を活かし、いく通りにも解釈できる、曖昧な文言を作成して、責任の所在を限定させないよう、工夫しているように見えるのです。

 さて、大人になってからの行動は、本人の責任ですが、選択権のほとんどない小学生に与える学校教育は、大変大きいものです。
 ただ、大人になって選択肢を持つことができるようになった時、どのような環境に自分の身を置くのか、それは自分の課題となります。

 「世の中のかなりの部分は、理不尽で成り立っている」
 世の中の理不尽を取り上げたら、きりがありませんが、例えば、肌の色だけで差別される状況を理不尽と言わずに、どう表現するのでしょうか。

 人は、そういうことを社会人になる前に知っておいた方がよいと(私個人は)思います。

 自分が新しい世界に旅立ち、以前より環境がよくなった時を振り返ってみた場合、たいていの場合、自分にとって、すごく嫌な人、あるいは、理不尽な世界があり、その世界から必死で這い出たということが本音です。

 人は、今の延長で未来を生きていこうとする習性があり、よほど耐えかねることがなければ、人生を変えようとは思わないものです。

 自分の人生を大きく変えた経験のある方は、そのことに気づくでしょう。
 これを強く意識された方とそうでない方を比べた場合、後の人生の変革を行ったかどうかの程度が変わってきます。
 現実には、今の世界を飛び出す勇気が必要となるのです。

 チャールズ・チャップリンの後期の作品で、「ライムライト」という映画があります。
 その映画の中で、バレリーナを目指しながら、足が動かなくなって、自殺未遂を図った若い女性に、チャップリンが提示した言葉があります。

 人が生きていくために、必要なものが3つある。
「imagination(想像力)」
「courage(勇気)」
「some dollars(いくらかのお金)」
とさりげなく、チャップリンが演じる道化師の主人公が述べる場面があります。

 また、ノーベル文学賞を自ら辞退した、現代哲学者のサルトルは、相談相手に対し、
「君の自由だ。選びたまえ」
と相手に賽(さい)を投げ返しています。
 そうして、
「いずれにしても、君は後悔するだろう」
と予言めいた言葉を追加しています。

 誤解させてしまったら、もうしわけありません。
 人生に、未来はないのです。
 その真意は、「ここにあるのは、今だけ。今、今、今の選択の積み重ねが自分の未来を作っていく」という意味なのです。

院内の様子

待ち合い 奥待ち合い

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