2016年3月26日
現代の錬金術

人は、自分にとって価値のないものにお金を出さない。
その価値とは、
「役に立つこと」
「心を動かされること」

役に立つことは、実用であるから、十分に値切りして買うことが多い。
一方、心を動かされたことに対して、支払う額は、不明である。
ここに相場がないため、少なめのこともある代わり、異常に多く支払うことがある。

乗用車でも、実用にこだわれば、同じ性能のものであれば、安い方がいい。
しかし、そこに心地よさ、快適さ、人によくみられるかも、という心を動かされる価値を見いだした場合、車の性能を超えた大金を支払うことがある。

メーカーも、もちろんそのことを理解しているため、「実用」でアプローチする場合があるし、逆にコンファトゾーンで攻めてくることもある。

さて、神社とお寺を比べてみると、近年では、神社の方が実用性に乏しい。
お寺では、葬式、法事など、やっておかないと気持ちが悪いという、なかば強制的な慣習がある。
供養をしておかないと、亡き人が浮かばれぬかどうか、知る由もない。
だが、やっておかないと、家族も責を果たしたといえぬ。
それが、家督を継ぐ者のしわざとあれば、親戚一同からも文句のひとつも出ることだろう。
身よりのない生活保護者が亡くなった時も、最低限ではあるが、市が費用を負担して供養を行う。
そう考えると、お寺の場合、多分に実用的用途が多い。
ただし、特別に有名なお寺は、御利益を求めてお参りにこられる場合もある。

軽く聞いただけであるが、昔と比べて、神社関係は、経営が苦しいところが多いという。
祭りは、その神社にとっての死活問題であるが、少人数で営むことができないため、他の神社の人と助け合いながら、お互いに行事ごとを営んでいるらしい。

神道は、古来より存在するものの、その価値は、「御利益」に集約されているのならば、悲しい実態である。

神社が、「病気にきく」「縁結びにいい」などという評判が立てば、多くの人が参拝して、賑わうことになる。
お守りも売れる。

お守りは、お砂や紙を祈祷して、それを袋につめたものであるから、それが高値で飛ぶように売れれば、現代の錬金術と呼ぶことができるかもしれない。
こう言ってしまえば、身も蓋もない話であるが、ただの砂が500円、1000円で売ることができれば、そう言える。
御利益に段階を設けて、松・竹・梅のように御利益に差をつけることもできる。
こういうアイテムを買う人の多くは、竹を買い、一部の人はもっとも高額な松を買う。
そこまでビジネス心理を活用して商いをしている神社は数少ないとは思うが、実際、本気になれば、売上を伸ばすことができる。

こういううがった見方は、「はしたない」ことであろうか?