2013年2月4日
人口の1%の人が瞑想すると、犯罪率が低下する?

瞑想や祈りというものには、どのような効用があるのでしょうか?
ひょっとして、あまり意味がない?

今回は、そのひとつの説についてのお話です。

「人口の1%の人が瞑想すると、犯罪率が低下する?」

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■20年前、こんな言葉を聞かされたときには、
そんなこともあるのかと軽く思いました。

▼祈りという無力なものが、力を持ってなす犯罪を
どのようにしておさえることができるというのだろう、

まったくつながりのない二つのことが
どのように結びついているのか、正直言って、
私にはまるで見当がつきませんでした。

しかし、当時、科学者の立場に身を置いていた私は、
この文句を否定せず、10年間心の内にとどめておきました。

そして、ある日、有名な経営者の話の中に
同じ文句を聞き出しました。

語り手は、京セラとKDDIを創設した稲盛さんです。
稲盛さんは、JALの再建者としても有名ですね。

▼稲盛さんは、こう語ります。

「それを信じる、信じないは自由だけれど、
そう信じて、自分が世の中のためにやっていると
絶えずさいなまれる不安におびえることがなくなる。

自分はこれだけのことをしている、
だから、神様は自分に悪いことを与えるはずがないと
信じることが大切なのだ」

歳月をかけて再びめぐりあったセリフに、
私は深い感銘を覚えました。

私は、その意味を自分なりに考えてみました。
稲盛さんの言葉に何の反論もありません。

だが、「自分を信じる」ということは
結構難しい作業なのです。

私のように自信がない者には
違う角度からみた考え方がしっくりきます。

■それは、

▼「自分という者の存在とその影響力」についてです。

話は変わりますが、
「友達の友達はみな友達。友達の輪」というテーマで
芸能界の人をあらいざらい呼び寄せている番組があります。
昼のお茶の間に30年間鎮座することに成功した
「笑っていいとも」という番組です。

芸能界でなくても、私たちにも知り合いはいるでしょう。
ひょっとすると、この文章を読んでいるあなたも
私の知り合いであるかもしれません。

▼もしかりに、ひとりひとりに300人の知り合いがいるとすれば、
知り合いの知り合いの知り合いで、

300×300×300 = 2700万人の知り合いがいることになります。
さらにその知り合いとなると、
81億人で地球上の人口(推定60億人)を超えます。

■話をもとに戻しましょう。

自分という人間がいて、それが何かを行えば、
その結果が他人に影響します。
家庭であれ、職場であれ、人のいる所には必ず起こります。

▼ささいなことだけど、大切な事実があります。
だれかがほほえみかければ、された方もほほえむ。
誰かが、いらいらして怒れば、受けた人もいらいらする。
そうして、波紋のように広がっていく。

→ よいことも悪いことも伝染するのです。

■日本には、

古来から「けがれ」という風習があります。

えんがちょとか、縁切ったとか、バリアなどと宣言して、
けがれが移らないようにする仕草は
映画「千と千尋の神隠し」にもでてきました。

大人になると、そういう幼稚なことはやらないけれど、
葬式から帰ると、塩をかけたりします。
また、霊柩車が通ると、こっそり親指を隠している人がいるかもしれません。

▼日本人は、そのけがれというものは、
放っておけば甲乙丙と第3段階まで伝染する
という考えかたを持っていました。

直接がふれたものが甲けがれ、
間接が乙けがれ、そのまた間接が丙のけがれで、
ここまでくるとけがれは止まるらしい。

→ 例えば、いらいらした人がいる家庭では、家族もいらいらしがちです。
それは直接的被害(甲)です。

そして、家族がそのいらいらを職場に持ちこむと
部下や同僚もいらいらします(乙)。

そうしたストレスをたくさん受けた部下や同僚が、
家庭でいらいらすると、それが彼らの家族にうつる(丙)わけです。

▼祈りは、いらいらすることの対極にあります。

だから、少数の人でもいらいらする代わりに祈ることを行えば、
他の多くの人に対して善をなすことになります。

一人の人間が直接影響する人が平均10人いると仮定すると、
甲乙丙の影響力は、10×10×10 = 1000人。

▼たったひとりの行動が1000人の人にほほえみを与えたり、
いらいらを及ぼしたりすることになります。

→ そう考えると、100人にひとりという1%の人が
祈るだけで世界が変わることをほんの少しは信じられるでしょうか。

■さて、話には続きがあります。

→ ここからが簡易的応用法です。

祈るということは、非日常的なことだと考える人も多いでしょう。
うちは無宗教だから、そんなおおげさなことはできない、
めんどうで長続きしそうにない、など。

→ そういう人の場合(私もそうですが)、
何か他のことに置き換えてもよいのではないでしょうか。
本質を失わなければ、形を変えても一向に構わないと思うのです。

▼例えば、「歌うこと」。
いらいらした気持ちをカラオケで雲散霧消させることは、
やはり1000人の人によい影響を与えることになる(かも)。

▼「歩くこと」
▼「俳句をつくること」
▼「つりをすること」
▼「映画をみること」
▼「花をかざること」
▼「お茶をのむこと」
▼「書をかくこと」
▼「お風呂に入ること」

その他多くのことが祈りの前段階にかえることができるでしょう。

→ 自分によいものを与えること。
すると、そこから湧き出てくるものがつながっている他者をも豊かにしていく。
その本質さえ忘れなければいいと思うのです。