2019年12月10日
アダルトチルドレンについて

アダルトチルドレンという言葉は定義のはっきりしない用語です。

それはどちらかというと言葉の方が先行して、物事を解決するためでなく、物事を説明するためにもちだされることが多い様に思います。

うまくいかない心理的要素にアダルトチルドレンという言葉を適用すれば、病気のような病気でないような不可解な問題もなるほどと何となく納得したような気になってしまうのです。

実際、残念なことにレッテルとして使われることが多くなっています。
私自身は、アダルトチルドレンという言葉は、「その人が解決すべき課題」というくらいにとらえています。

人が持っている課題は先送りされるものです。

ものごとから逃げてしまう習慣がついた人はいろんな場面でやはり逃げ腰になってしまう。
断ることが苦手な人は別の件でもつい引き受けてしまう。
甘えるのが下手な人はいつまでたってもへたなまま……。

こうした問題は繰り返し遭遇します。
神はわれわれが解けるまで同じ問題を出題するようです。
ということはどこかで本腰を入れて問題を解かねば解決できないということでしょう。

しかし一方、物事の考え方は一通りではありません。長所と短所は裏腹で、どちらか片方だけということはめったにないものです。
逃げてばかりいる人も逃げていることによって命が救われていることもあるのです。

例えば、本能的には、絶対にかなわぬ相手からは逃げることが正しい。
「三十六計逃げるに如かず」という言葉は、中国の孫子という人が兵法という戦術書に記した立派な戦術です。
極端な話ですが、地震や津波といった人を凌駕したものからはすばやく身を引くことが正しい対処の仕方となるのです。

何事も正しい、間違っていると絶対的な基準はありません。
その人の課題は、その時、その場面でその人がそういう対処の仕方でよかったかどうかを信じられるかどうかにあると思います。

今の自分にはここまでしかできないとひた向きに問題にぶつかった場合、その問題は解決されているのです。
結果の良否ではありません。

大切なのは、その人が今できる事を行っていくこと、そして、できないことに手をつけないようにすることなのです。

不思議なようですが、できないことをしようとする人ほどできることをやろうとしません。
くりかえしますが、結果ではないのです。

その人がどんな人になるのかという問いには、いちがいには答えられません。
また、とりたてて知ろうとしないほうがいいように思います。
単にレッテルをつけるだけになりかねませんから。